あまりPVを増やさないようひっそりと書いている当ブログの中で、最近、
を見ている人の割合が高いようですが、このエントリで書いたとおり、この本の内容については、「同意できる部分は多いけれど、100%共感はできない」という感想を持ちました。
というのも、大人の社会では、年収や所属企業、地位など、社会的な評価基準・ステータスがいくつかあるのに対し、子供の社会では、社会的かつ客観的な評価基準・ステータスが学力(というよりも学力テスト)ぐらいしかないからです。
子供時代に、全ての人にとってその後の人生を左右しかねない、重要な評価基準がほぼ学力テストしかない状況では、そこに批判や嫉妬が集中するのは、ある程度仕方がないのかな、と思います。
そこで、当エントリの本題、こちらの本の話です。
この本の第1章では、「学力テスト」を「かけっこ」に置き換えて示すことによって、それが唯一の(かつ将来を左右する)評価基準であることの不条理を説明しています。
・かけっこ(運動能力)が生まれつきの才能に大きく影響をうけるのと同じく、学力も「遺伝」により生まれつき持つ能力に大きく影響をうけている
・かけっこ(学力)に関係のない才能(能力)が必要な職に就くにもかかわらず、かけっこ(学力)の成績で進路が振り分けられてしまう
つまり、先に紹介した本(勉強できる子~)で言うところの「勉強できる子が卑屈になる」ような環境を作り出しているのは、直接関係のないことの振り分けにまで学力テストが「唯一の評価基準」として使われてしまっていることが原因、ともいえます。
他の評価基準があって、学力はダメでも他の能力で評価されることによって、その後の進路を自分の力で選ぶことができるのであれば、学力だけに批判や嫉妬が集中することはないでしょうから。
もっとも、この本(日本人の9割が~)では英才教育などで早期に進路を振り分けてしまうことについては、反対の立場を取っています。
というのも、学力も含めて色々な能力が遺伝によって(ある程度)決まるといっても、その能力を発現させるためには、その能力を発揮できるような環境(能力を必要とする機会)が与えられないといけないからです。
親が「この子には○○の才能がある」と判断して早期に英才教育を始めてしまうと、遺伝的にはもっと才能がある分野があるにもかかわらず、それに触れる機会を与えられずに育ち、英才教育を受けた分野でも才能が伸びずに頭打ち…ということになるよりは、小さいうちは色々なものに触れさせて、本当に才能がある分野を見つけたほうがいい、ということなのでしょう。
「機会を与えられることで、遺伝的な才能が開花する」のは子供に限った話ではなく大人にもあてはまることで、社会の中での行動範囲の広い大人は、何も考えなくても才能を見つけて発揮しやすいとはいえ、興味を持ったことに対しては、自ら機会を求めてチャレンジしていくほうが、より高い才能を発揮できるようになる、といえるかもしれません。
「能力は遺伝で(ほぼ)決まる」と言っても、努力が無意味ということではなく、「才能のないことに対して無駄に努力して消耗するのではなく、才能のある分野を見つけて、上限まで伸ばすことに対して努力することは重要だ」といえるでしょう。
余談ですが、先のエントリに書いた小学校高学年時代の担任に対して、私は特に恨みの感情は持っていません(大して感謝もしてないけど)。
というのも、(殺されたり後遺障害が残るようなケガを負わされたりしない限り)途中の経路(どこの高校の入るとか)がどうなったとしても、最終的に自分自身が落ち着くところは変わらないだろう、ということを何となく思っていたからです。
特に根拠はなかったのですが、この本を読んで、根拠らしいものがわかったような気がします。