こっちの本を買いに近所の本屋に行ったときに、ついでに周囲の本棚を眺めていて、気になって買った本です。
なぜ気になったか、というと、最近どこかのブログで
「苦労は買ってまでするものではない。苦労すると性格が歪む」
というような話が出ていて、なぜかそのときに名前が浮かんだのが、ワタミ創業者の渡邉美樹氏だったから、です。
もっとも、「若い頃苦労した⇒成功した⇒転落した」というイメージはあるものの、「性格が歪む」というのはそのまま当てはまらないような気がしていました。
むしろ「歪むどころかまっすぐなまま」といったほうがいいかも。
性格云々では、この本を読んで思い出しましたが、著者の元勤勤務先の会社を経営していた、折口雅博氏のほうがイメージに合っているかもしれません(この方も「苦労⇒成功⇒転落」パターンで語られていますよね)。
もっとも、マスコミやネットを通じて伝わってくる話が真実かどうかはわかりませんので、本当のところはわかりません。
私のイメージは「性格が歪んだ人=誰から見ても悪人」ではなくて「表の顔と裏の顔が違う人」なので、(「表裏があるから」ではなくて)強硬な主張を続けたがゆえに叩かれた渡邉氏よりも、裏の顔を暴露されたことで失脚した折口氏のほうがイメージに近い気がします(繰り返しますが、本当のところどうなのかはわかりません)。
本のサブタイトルに「善意」と付いていますが、私自身、より酷い(悪い)結果をもたらすのは「悪意」ではなくて「善意」(「良かれと思って」と「意図せずに」の両方の意味を含めて)だと思っています。
悪気があってやっていることは、本人は気付いていなくても無意識のうちに「後ろめたさからの手加減」が加わっていることが多い一方、良かれと思ってやっていることには手加減というものがないからです(…という話を十数年前に誰かから聞いて「なるほど」と思ったので、周囲の人に話したところ、誰一人として同意する人はいませんでした…)。
他人から「それは間違っている」と言われた場合、後ろめたさがあってやっていたことについては言い訳をしたくなりますが、「正しい」と思い込んでやっていたことなら、「お前のほうが間違っている」と言い返したくなりますよね。
もちろん、悪意によるいじめなどに悩む人も多いので「悪意ならいい」という気は全くないのですが、「いじめているつもりではないいじめ」のほうが、受けた側に与えるダメージは大きいものです(先のエントリで、小学校高学年時代の担任のことを書きましたが、まさにそのパターンです)。
ワタミの場合も、「善意」でやっていたことが元で社員が過労自殺し、それに対して、経営陣が「我々は何も悪いことをしていない」(その主張が全面的に間違っていたわけではないのですが)と主張し続けたことで(「善意の=正しいと思って&気づかないまま」誤った対応を続けたことによって)会社が窮地に陥った、ということになるかと。
最近、ネットの炎上に関して「正義」という言葉が引き合いに出されることがありますが、炎上を引き起こす「正義」も、「善意」ゆえの暴走、といえるでしょう。