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名古屋のITインフラお守り係です。ITイベントへの参加記録などを残していきます。

今でも、小学校の国語の授業では「感想の強制」が行われているのだろうか?

…といっても、読書感想文の強制提出のことではありません。

あれも、すごく嫌だった思い出がありますが。

 

ちょっと前に「3.9+5.1=9.0と答えると減点」が話題になって、昨日のTV番組でそのネタが取り上げられて一部で再燃しているようですが、こちらは小学校低学年の国語の話です。

数十年前の話なので、今の学習指導要領でどうなっているのかは知りません。

 

小学校3年生のときの国語の授業で、ある物語を取り上げて、(児童に)感想を言わせる、というのがありました。

登場人物が最終的に取った行動について、途中の言動からその人物の心情を読み取って感想を言わせよう、という主旨だったようです。まあ、文章の読解力を付けさせ、それを評価する、ということでしょう。

うまく読み取れれば「○○だと思う」のような感想になり、読み取れなければ「なぜそのような行動を取ったのかよくわからない」という感想になるだろう、という前提だったようですが。

 

私は、というと、何を答えさせようとしているのか、何となく感じるところはあったのですが、その人物の途中の言動から想像できる心情が、最終的に取った行動の「理由」としては弱く、中途半端だろう、ということで、後者に近い感想を言いました(「最終的には良くわからなかった」という、正直な感想)。

 

そう答えると(他にも何人かの児童に感想を言わせた上で)、担任の先生は、

 

・前者(○○だと思う)という感想を持った子はすばらしい。そういう感想を持つのが正しい。

・後者(わからない)という感想を持った子はダメ。登場人物がこういう言動をしているのだから、意図は理解できるはず。そういう感想を持つのは間違っている。

 

という話の流れで授業を進めていきました。

 

「え?感想に『正しい』とか『間違っている』とかがあるの?」

 

と、当時、かなり衝撃を受けたことを覚えています。

「好き」とか「嫌い」なら、まだしも。

 

「なぜそういう感想を持つに至ったのか」に関係なく、感想の「種類」で「正しい」「間違っている」を区別するそのスタイルに、強烈な違和感を覚えました。

 

結構ショックだったので、それ以来、(読書感想文の強制提出の嫌悪感も相まって)読書に「恐怖」を覚えて、しばらく物語など文芸作品をほとんど読まなくなってしまいました。

 

もっとも、小学校4年生頃から、パソコン関係の雑誌や技術書などは読んでいて(当時のパソコンでは一般的だったBASICから始まり、そこから進んでMC6809Z80アセンブリ言語の解説書とか…どんな小学生だよ…)、活字には親しんでいたので、文章が読めなくなることはなかったのですが。

 

大学受験の頃になると、

「国語(現代文)の入試で取り上げられるようなエッセイの著者が、試しに問題を解いてみようとしたら、選択肢のどれも正しいように思え、迷いに迷って選んだ結果、見事に間違えた」

というような「あるある話」を聞いて、「やっぱりそうだよな」ということで、ちょっと気が楽になったのを覚えています。

※「感想」というよりは「解釈」の話ですが。以下同様。

また、「気づくのがおせーよ」という声も聞こえてきそうですが、当時はWebもなく、「文芸作品嫌いが文芸作品の話題に触れられるのは学校の授業と新聞の文芸欄くらい」で、今とは状況が全然違います。

 

エッセイや小説ではないのですが、BUMP OF CHICKEN藤原基央さんが「歌詞の解釈は聴き手の自由だから、作者自身が『正解』をどうこう言うものではない」という趣旨のことを言われていたようで(詳しくはないのでソースは不明です。間違っていたらごめんなさい>ファンの皆様)。

今のシーズンによく流れている(ここ1~2年はあまり聴かなくなったけれど)「スノースマイル」は、作者自身は「恋人同士の歌のつもりで作ったわけではないけど、解釈は聴く人の自由」ということで、ファンの間では「親子説」だったり「おじいさんと孫説」だったり、色々な説があるようです。

 

他人に無理に押し付けず、本人たちが楽しんでいるのであれば、そういう自由な考え方でいいのではないかと思います。

 

「テストで点数を付ける」ことには向かないですけどね。

「学習したことには全て点数を付けて評価をしなければならない」という発想から脱却しないといけないのかもしれません。